ヒューマンドキュメンタリー映画祭・阿倍野|第13回・2015年度映画上映

第13回(2015年)上映作品

子供たちの涙~日本人の父を探し求めて~(49分)

第二次世界大戦中のインドネシアで、軍人・軍属の日本人男性とインドネシア系オランダ人女性の間に生まれた混血の子たち。
終戦後、父が日本に引き揚げ、母の国オランダへ渡った彼らは「敵国の子」と蔑まれた。自分は何者なのか、望まれて生まれてきたのか……。その答えを知るためにも、日本にいる父にひと目会いたい想いが募った。
一人の日本人元兵士が協力を名乗り出た。彼の元に寄せられた父親探しの依頼状は、百通を越えた。実際には、その何倍もの涙の物語があったことだろう。時は残酷にも流れ、戦後七十年、かつての子供たちもすっかり年老いた。その大半は、父が日本人であること以上は何も知らされないまま……。
日本人すらも知らなかった、終わらない戦後を追った渾身のドキュメンタリー。

  監督は、英国での第3回帝国戦争博物館短編映画祭、第12回チチェスター短編映画祭でともにベストドキュメンタリー賞を受賞した砂田有紀。「子供たちの涙~日本人の父を探し求めて~」は、インドネシア・ジャカルタで開催されたIMA国際映画賞2014 短編ドキュメンタリー部門で金賞に輝いた。

~背景~
インドネシア共和国は、1602年のオランダ東インド会社設立を機に、長らくオランダの占領下にあり「オランダ領東インド」と呼ばれていた。
1941年12月8日、日本は太平洋戦争に突入。1942年3月9日、蘭印軍は日本軍に無条件降伏。以降、1945年8月15日終戦まで、日本占領下で、捕虜のみならず、民間のオランダ人住民も抑留所での生活を強いられた。
長い植民地支配を経て大勢いた混血のインドネシア系オランダ人たちは、反日言動がない限り日常の生活を送っていた。地上戦がほとんどなかったこの国では、生活のために働く彼女たちと軍人・軍属の日本人男性が日常的に知り合うことができた。そして、多くの子供が誕生。
終戦後、父は帰国。残された子供たちはそれぞれが数奇な運命を辿ったが、公式な調査はこれまでにない。
インドネシア独立戦争(1945-1949)を期に、追いやられるようにオランダ本国へ渡った母親と子供たち(オランダの日系二世)がこの作品の主人公である。

IMA international Movie Awards 2014 のShort documentary 部門でGold Award 受賞

砂田 有紀 監督

同志社大学在学時、カリフォルニア大学アーバイン校映画学科に交換留学。卒業後、米系テレビ局に就職。その後、ロータリー奨学生としてロンドン大学修士課程でドキュメンタリー製作を学ぶ。
人種問題を描いたショートフィルム「Footbridge」で英国チチェスター国際映画祭ベストドキュメンタリー賞を受賞。
日英退役軍人の和解を描いた「Dear Grandfather, I am in England.」(邦題「兵隊だったおじいちゃんへ」でロンドン帝国戦争博物館映画祭ベストドキュメンタリー賞受賞。
BBC特派員ファーガル・キーンがインパール作戦について書いたノンフィクション「Road of Bones」(白骨街道)、アルジャジーラTVのドキュメンタリー「Burma Boy」のリサーチャー/取材同行を手がける。WEBU元兵士の取材を重ねる中、7年前にオランダの日系二世の話に出会い作品製作を決意。

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舞台挨拶(砂田 有紀 監督)

みなさま、本日は足元の悪いなか、日曜日の早朝からお越しいただきまして、ありがとうございます。私が監督・制作をいたしました砂田有紀と申します。
少し、10分ほどお時間をいただけるとのことで、作品の背景等について、お話させて頂いたいと思っております。
 私がこの作品を制作しようと思ったきっかけなんですけども、一昨日まで東京と大阪で、この作品と一緒に上映しておりました「兵隊だったおじいちゃんへ」(監督:砂田有紀)という、日本とイギリス、ビルマのインパール作戦で一緒に戦った兵士たちの友情と和解の作品があるんですけども。
そこに、出演されていた、平久保正男さんという、元商社マンで、元陸軍経理将校だったんですけども、その方と同じく元陸軍将校で、元商社マンの方がいまして。
日本に帰ってきたとき、この2人から、元日本軍の方を紹介していただきまして、一人ひとりのご自宅に伺いながら、インタビューを続けておりました。
 私は京都在住なので、関西の方をお一人紹介していただきまして、それが2007年ですけど、そこから7年かかっています。翌年の2008年、オランダにリサーチに行ったのですけども、私の両親は戦後生まれですから、自分の両親よりも年上の、壮絶な人生を歩んできた人たちのお話を2時間、3時間とお伺いして、1週間立て続けに聞いて帰ってきたものですから、もう圧倒されまして、帰って来てから素材(録画した映像)を1年間、見る気力すらなく、1年間が過ぎてしまいました。その中で、例えば継父が日本軍の捕虜だった方で、鉄道で従事されていて、弟や妹が生まれていく中で、自分を家政婦のように使われて、継父から虐待を受けていて、15歳のときにその養父の子どもを産んで、(産んだ子どもを)すぐに孤児院に預けられ、子どもも母親も無かったことにして、何も言わなかったといった人がいました。
自分が結婚して、子どもが産まれ、育ったときに、孤児院に預けた自分と養父の子どもが訪ねてきたんですね。そこで初めて、自分のルーツを調べて、半分日本人だということがわかったという方がおりました。1年間、全く素材を見ることもなく、彼ら彼女らの証言を、自分の中で消化するのに時間がかかったというのがありました。 また、ファンディングをとるのに非常に難しかったので、7年という月日が経ってしまいました。この作品を作る上で、気をつけたことが2点ありまして、1つが「兵士へのリスペクト」ということです。たくさん日本兵だった方にもインタビューを撮っていたので、父親が不在なのですけども、彼らの話をずっと聞いていたので、リスペクトを持って取り組みたいと思いました。

もう一つが、オランダと日本の両国で受け入れられる作品にすることです。
この映画の中で日本大使館のデモのシーンがありましたけども、元捕虜の方たちの話がなければ、オランダでは、白々しくなり、真実味を持った話と捉えていただけません。
なぜ日本とオランダではタブーなのか、ということなんですけども。
まず、オランダでは元捕虜の人たちというのが、日本政府に対しても、オランダ政府に対しても、300年間も住んでいた自分たちのホームグラウンドがインドネシアなので、それを諦めて帰ってこなければいけないとうことの保証も含めてやっているんですね。いまでも、日本大使館の前でのデモは、月1回行われているという現状があります。
それから、日本では1980年代に、中国在留日本人孤児の肉親探しを、日本政府によって積極的に行っておりましたけども、圧倒的な違いは、日系オランダ人というのは、片割れしか日本人じゃないということと、両親が結婚をしていないということがあります。ですから、政府の協力を全く得られずにいました。でも、この作品に出ていた方は、ほぼ一人で、父親探しを続けていらっしゃいました。それから、父親自身も声をあげなかったというのがあります。
自分の家族が日本にあるので、なかなか自分にインドネシアに子どもの話をするのは、難しかった。彼らは、例外を除いて、ほとんどの父親は、誰にも言わず心に秘めたまま、お亡くなりになったというのがありました。ということで、日本でもオランダでもタブー視されている彼らなのですけども、私はこの作品を、昨年12月に特別上映をいたしまして、彼らや家族を招いて上映したんですけども、上映後に彼らが立って、日本語で「有紀さん、どうもありがとうございました」とお辞儀をしてくださいました。日本での上映を心から願っているのは彼らで、自分たち存在が少しでも認知されて、そのことがきっかけで、父親や家族が見つかればいいと願っておられます。
このような機会に上映していただいて、またこれからも多くの人に観ていただければと思っています。

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